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 2017/3/1(No240)

敗局は師なり 挫折は発見の導き

ーー 「将棋」「キューバ」「インクジェット年賀」「さとうきびとひまわり」の物語ーー

高村 善雄

筆者 慶應義塾高校に入って、初めての電車通学、途中下車でトイレに飛び込むことが多く、休学し、3か月の断食道場での生活で心身を鍛え治したが、その時、見返りに将棋に凝りだし7級から二段になった。学生将棋界で慶應義塾大学は一度も優勝したことがなかったので、それが青春時代の大きな目標となった。先輩、後輩にも恵まれ、1969年大学2年の時、慶應は関東リーグで初優勝、関西の優勝校、大阪府立大学を破って、初の全国制覇を遂げた。目標を達すると丁度学園紛争と重なったこともあり、麻雀を始めるなど堕落した学生生活に陥ってしまった。下手をすると2度目の留年、成績書が届くと「仮進級」とあった。九死に一生を得た思いで吹っ切れ、翌年は関東春、全国、関東秋の学生名人戦で優勝、個人戦負けなしの記録を作った。東西対抗から全国化し、全日本学生将棋連盟委員長も務めるなど、まさに青春は学生将棋に明け暮れた。そんなわけで就職活動は遅れ、商社志望で蝶理の第3次応募にようやく間に合った。

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大山名人と学生名人の記念対局(中央が私)
完敗し「兼業では道は究められない」と身体で教えてもらい、37年後に独立した。

蝶理では将棋好きのサルバドル所長に引っ張られ、3年中米駐在、スペイン語ができるようになり、帰国後キューバが担当地域に加わった。最初の仕掛けは着色した樹脂を輸入していたのを、マスターバッチでの現場着色に切り替えさせること。滅茶苦茶な要求が来たが、ブレンダーを2機(120万円)無償提供したのが当たった。外貨節約になり、2億4千万円の商売で返してきた。「恩の倍返し、3手の読み」はその後も次々と当たり、「ミスターキューバ」と呼ばれるようになり、1988年にはフィデール・カストロが革命35周年記念の水族館3.5億円を購入してくれた。その時、何かこちらの恩返しをと考えたのが、当時世界一であった、さとうきびから新しい付加価値を生む商品開発であった。さとうきびワックスからのコレステロール低下剤など順調に進んだが、1991年ソ連崩壊により、コメコン経済は破綻、砂糖を国際相場の2倍で輸出、石油を半額で供給してもらっていたキューバはデフォルトとなり、水族館は特別支払いになったが、他の商業債務の支払いが滞ってしまい、私はデリート商社マンに転落した。丁度蝶理も苦しい時期にあったが、支援会社の旭化成から派遣された上司が開発好きで、さとうきび副産物の研究は幸運にも細々と続けられた。その上司にも「紙は止めとけ」と言われたにもかかわらず、搾りかすのバガスではなく、外皮の長い繊維から、山梨県、西島で和紙を作り、郵政省にエコはがきを作りませんかと提案書を出しておいたのが奇跡を呼んだ。

郵政省では当時 環境に優しい非木材紙はがきの企画が進んでいた。さとうきびに関しては、台湾製糖のバガスパルプを原料として、指定メーカーの日本製紙、大昭和製紙が開発していたが、台湾製糖の閉鎖により、頓挫していたところに、私の提案書が舞い込んだのである。三菱製紙の子会社、東邦特殊パルプと組み、さとうきび繊維パルプを作り、はがき原紙は第3の指定メーカーであった北越製紙で仕上げ、さくらめーるが完成し、信頼を得た。切手文通振興室の担当の方を東邦特殊パルプ小山工場にお連れしたとき、「インクジェットはがきの企画があるが、遅々として進んでいない」とのこと。インクジェット印刷でにじんだ画質の年賀を出していた私は、とっさに「私に任せてください」と答えた。すぐに、コネのあったエプソンの大渡部長、キヤノン販売の勝木部長に連絡を取り、フォロー体制を固め郵政省に提案した。丁度そのタイミングで女性初のキャリアであった、佐村知子氏が室長に赴任されたのが大きく、スピーデイに物事が運び、三菱製紙も4番目の指定メーカーになることができ、2億枚が発行された。しかし、新しいはがきが簡単に売れるわけもなく、郵便局も説明に困るものは奥にしまっておくので、売れ行きは悪かった。しかも他3製紙メーカーも慌てて、間に合わせて来たため品質が一定せず、市場で100件のクレームが起きた。その解決案はすぐに報告書にできたが、結論として1億枚に減らして継続しようという案になった。

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「サトウキビ・カリユシ・ウエアー」
(沖縄で撮影)
沖縄のサトウキビ繊維を使った
「さくらめーる」と「サミットはがき」

そこに、IT戦略を掲げた、これも女性初の野田聖子大臣が赴任され、「こんなに時代に即した商品を何故減らすの!」鶴の一声、前年比50%ダウンの稟議書が急転、20%アップの2億4千万枚に変わった。それは良かったのだが、市場の認識には未だ届かず、売り捌くのがようやくだった。3年目にブレークし、2億8千万枚は2週間で売り切れ、4年目6億3千万枚は3週間で売り切れ、私は三菱製紙にスカウトされ、さらに拡販に拍車がかかり、右肩上がりが続き、最高24億枚まで行った。その間もさとうきびの研究は続け、沖縄県のさとうきびも使って「さくらめーる」「サミットはがき」などで関わっていたが、長く研究していた私のさとうきび総合利用構想に大きな保護で成り立っているさとうきび産業への外圧の先取りとして国と沖縄県から3億円の実証プラント建設費が出ることになり、折角の2度目の、今度は順調だったサラリーマン生活を辞め、2つの農業ベンチャー、「沖縄さとうきび機能研究所」「もったいないバイオマス」を起ち上げた。

沖縄離島粟国島(あぐにじま) は、実在600人、4mの高波でライフラインのフェリーが止まり、パン、新聞、牛乳がなくなる、そこで7年間、さとうきびを極める事業を行った。製紙技術を応用して成功した「アンチエイジングシュガー」、シキボウと共同開発した「サトウキビ繊維かりゆしウエアー」「疲労軽減のサプリメント」「焙煎食物繊維」など、それぞれ、製造技術、製品開発、市場開拓まで完成したが、6年目の沖縄県からの移設提案と補助金を断って、撤退を決意した。4年目からはプラントを1人で動かすようになり、黒字化はしたが、朝7時から、夜中2時まで、動かすのはさすがに63歳を超えたころから限界を感じていた。

沖縄撤退を決めた後、すぐにヒマワリ茎の研究に入った。筑波大学がヒマワリ油からバイオデイーゼルを研究していた時、茎が使えないかと頼まれ、紙の試験をした際に油っぽい成分が邪魔することがヒントになった。案の定、茎の髄から親油性食物繊維が作れた。コレステロール中性脂肪排出促進剤、食肉加工天然結着材の2件の日本特許が登録でき、「無添加鶏ハム」「腸内洗浄クッキー」などを試験販売している。夢は日本で開発した技術をヒマワリ大国(ロシア、トルコ、アルゼンチンなど‥‥何故か紛争国ばかり)に役立てることだ。興味ある方は「もったいないバイオマス」のHPをご覧いただければと思う。

「敗局は師なり」いつも、挫折の時に新しい熱いテーマが現れた。多分最後のテーマとなるヒマワリは奥深い。エンドマーク

たかむらよしお デイレクトフォース会員(592)
(もったいないバイオマス株式会社 元蝶理 三菱製紙)

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