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一般社団法人 ディレクトフォース

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2020/11/16(No.329)

ベトナムのスパイ

 

平井 隆一

筆者

今から30年近く前の話である。ベトナム北部の最貧地区にセメント工場を建設すべく調査に初めて入ったのは1993年春だった。当時のベトナムは、ドイモイ政策が始まってまだ日が浅く、諸外国も同国政府の改革・開放路線が上手く行くのかどうか半信半疑だったので、日本の大手商社はどこも進出していなかった。その隙間を埋めるため、いわゆる共産圏友好商社が活躍していた。私達はその中の1社に現地の通訳や諸手続きをお願いしていた。その友好商社に日本語のとても上手なベトナム人通訳がいた。彼の名前を仮にグェンと名付けよう。

グェンにどこで日本語を習得したのか?と聞くと「北朝鮮」との回答。今でもベトナムと北朝鮮の関係は良好で、例えば、昨年2月には、米国のトランプ大統領と北朝鮮の金正恩朝鮮労働党委員長の初めての会談がベトナムの首都ハノイであったくらいだし、今年の2月には両国間の国交樹立70周年を迎え、祝電を交換したばかりだ。1950年にホーチミンと金日成両国家主席同士が築いた関係だ。

さて、1993年春に話を戻そう。グェンに「北朝鮮で?」と聞き直すと、いわゆるスパイ教育を北朝鮮で受け、その時に日本語も直接日本人から習った、とのことだった。あとからいろいろ聞いてみると、どうも彼の日本語の先生は日本人拉致被害者の一人だったようだ。先生の本名は知らされていないが、朝鮮人名だったそうだ。そう言えば、私が浦高に通学していたとき、同級生の一人が学校の正門を出たところで忽然と姿を消した。今から50年以上前の話だが、彼が拉致被害者の一人だった可能性が高い。彼の弟さんが今でも各方面に捜索協力を呼び掛けているが、未だに不明のままだ。

私が現地で12年間携わったセメント工場の完成時の写真。建設開始から5年経った2000年に操業開始、20年後の現在は近くに出光興産の大製油所(1兆円投資)、発電所、製鉄所、造船所などが出来て一大工業地帯に生まれ変わった。勿論人口も桁違いに増加し、30年前には道路も水も電気も何もなかった土地が千金の土地に生まれ変わった。

グェン曰く、ベトナム戦争中に北ベトナムのスパイとして南部に潜入し、機密情報を北に流していたそうだ。グェンの顔は彫が深く浅黒いため南部人に似ていたので特殊任務に就いたと思われるが、彼曰く、一番苦労したのは言葉の違い。例えば「ズンさん」を南部では「ユンさん」、或いは乾杯の時に「モッ・ハイ・バー・ゾー(1,2,3,ソレ)」の代わりに南部では「モッ・ハイ・バー・ヨー」と言うなど、同じベトナム人でも発音が全く違う。そして2番目に食習慣。バナナを食べるとき、まず少しずつ皮を剥いて徐々に食べるのと、全部皮を剥いでから真ん中をポキッと折って半分ずつ食べるなど、全く違う。そのバナナの食べ方でスパイと見破られ、命を落とした仲間もいたそうだ。

グェンには大変お世話になった。ベトナム語を全く理解できない我々にとって、グェンの存在はとても大きかったが、一方ではセメント工場ができることによって、電気も水も無い過疎の田舎が一大工業地域に変身することが予測されていたので、利殖にもかなり励んでいたようだ。私も一度グェンに「平井さん、工場のアクセス道路沿いの土地を共同で買いませんか?」と誘いを受けたことがある。べトナムは中国と同じ共産国なので土地は国家のものだが、使用権は売買できる。当時はまだ二束三文だったが、今では大きな市街地になっているので、所有していれば莫大な財産になったに違いない。エンドマーク

ひらい りゅういち DF副代表理事(1022)
元旧日本セメント(現太平洋セメント)

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