古代史は、永遠に真犯人が分からない推理小説のようなものなので、先人の研究をもとに論理的かつ自由に想像を膨らませて推理していく楽しみがあります。大学に勤務するメリットの一つに自由に大学図書館が使えることがあり、退職を機に、かねてより興味を持っていた古代史に関する書物を、手当たり次第に図書館で借りて読み始めています。勤務していた昭和女子大学には古代史の講座が無いこともあり、図書館の古代史の書棚にある多くの本は私が数年振りの貸出であり(中には、10年以上前の購入以降、誰も借りていない本もありました)、多分私が大学では最も多く、古代に関する書物を図書館で借りていると自負しています。因みに、私の出身は奈良県の橿原市というところで古墳、神社が多くあり、昔は何の興味も無かったのですが、今回古代史の書物を読み始めてから、ここが古代史の舞台であることを再認識し、墓参り等で帰省する際には、足を延ばしてこれらの舞台を巡ることが楽しみになっています。
古代史は、日本書紀や古事記による文献史学か、発掘調査による考古学しか手がかりがありません。記紀はご存じのとおり、伝承を8世紀にまとめたもので、全てが事実とは限りません。書物にある情報を遺跡での発掘と突きあわせて検証していくという地味な学問です。その中で、私はヤマト王権の成立過程に興味を持っています。天皇制が大体固まって来たのは6世紀中頃、欽明天皇の頃と考えて良いと思いますが、それ以前については様々な推測が成されています。通説としては大体3世紀前半に、奈良盆地の南東の隅である三輪山山麓に大王(後年、10代崇神天皇と名付けられた権力者:大体西暦250年前後)が出現します。これは江戸時代に崇神天皇陵と比定された行燈山古墳の脇に、昭和の初期に小規模な遺構が発見され、最近の本格的な発掘で纏向 遺跡と名称された大規模な遺跡から、この大王が確実視されています。
纏向遺跡というのはちょっと変わった遺跡で、普通の集落から必ず出てくる生活雑器が発掘されずに、地方の陶器の破片とか、大型の建物の遺構が発掘されていることから、政府の置かれた都で、祭祀も行っていたと想像されます。因みに、纏向遺跡から数キロ西に離れた場所に弥生初期から後期までの唐古・鍵遺跡があり、こちらは濠に囲まれた環濠集落ですが、纏向遺跡には環濠はないことから、大体3世紀中頃に奈良盆地の政治勢力がこの大王に収斂したものと推測できます。
古代史で面倒なのが名前です。当然当時その大王が何と呼ばれていたかなど誰も知らないし、文字も無い時代。記紀ではこれらの大王を、和風の諡(おくりな:死後名付けられる名前で、漢号と和風があり、漢号はXX天皇)で記録しています。編者が伝承に従って諡を付けるのですが、その人の功績や“いわれ”を反映されていると考えられ、この和風諡号は古代史研究者にとって、非常に重要な情報です。それこそ本居宣長がこの研究者の一人です。
因みに、記紀には二名の「ハツクニシラススメラノミコ(“国を作った初代大王”の意味)」の和風諡号を持った人がいます。神武天皇と崇神天皇です。両者とも、他所から奈良盆地に進出して来たことは間違いないと思います。神武は「カムヤマトイワレヒコ」という諡号も持っています。これは大和の磐余(イワレ:今の橿原市と桜井市のあたり)に覇権を唱えた人物という意味で、これも狭い範囲ではあるが、国を作ったという意味では「ハツクニシラススメラノミコ」には違いありません。3世紀に畿内を始め広い地域に覇権を唱え、「ハツクニシラススメラノミコ」と呼ばれる大王(崇神)の実在は確定されていませんが、崇神のもう一つの諡号「ミマキイリヒコイニエ」がヒントになります。ミは漢字の「御」で、美称。「マキ」とか「イニエ」の箇所については諸説ありますが、この諡号のポイントは、「イリヒコ」です。これは入り婿を意味しています。当時、豪族が優秀な人材を囲い、気に入れば婿養子として豪族の繁栄を託したものと思われます。
崇神天皇を婿養子としたのは大神家(おおみわ:大神神社の大神です)であろうと推測されています。当時の奈良盆地の有力豪族は ①三輪・磯城地域を支配する大神、②天理市から奈良市にかけての地域を支配する物部、③御所市、五条市の奈良盆地の西側を支配する葛城、④その北側の斑鳩、平群地域を支配する平群(へぐり)等の豪族が連合して、大王を出していたと推測されます。現在の総理大臣が自民党の派閥の力学の上で選出されている構図に似ています。では、何がこれらの豪族の政治権力の基盤であったのか、これに非常に興味を引かれて、関連する書物を読んでいますが、一つは祭祀(シャーマン)、一つは富の源泉としての鉱物だと私は考えています。
神武天皇の東征は全くの作り話ではなく、何らかのヒントがあるというのが、最近の古代史研究の流れです。後の大王に繋がる人物が西から奈良盆地にやって来たことは間違いないようで、多分その動機は鉱物だと思います。当時の戦略物質であった、鉄、銅、そして水銀を求めて辿り着いたところが奈良盆地であったろう、という学説を私は支持します。遺跡、伝承、また記紀の解釈等から、豪族が支配している地域には、鉱物が産出した形跡があります。これらで富を成した豪族が外部人材を入り婿で迎えて、奈良盆地を支配し、やがてその勢力を畿内に広げて行ったのがヤマト王権の構図でしょう。その過程で、大王の資質(優秀な人物を選ぶか、操り人形を選ぶか)、豪族間の派閥争いがあり、クーデターや大王の暗殺といったことがダイナミックに展開し、やがて6世紀中頃に少し落ち着き、天皇制の礎が出来て来たと考えています。この戦略物資の争奪は、現代のレアメタルの争奪に似たところがあります。特に鉄がカギです。婚姻も重要な政治戦略であり、記紀に出てくる大王の諡、諱、皇后、妃の家系等から多くの研究がなされ、また新たな遺跡の発掘もあり、興味は尽きません。ちなみに、漢号諡号で“神”の文字が与えられている天皇は3名しかいません。先の2名の天皇と15代応神天皇です。この応神天皇もその後の大王の継承に大きな影響を及ぼす人物で、個人的には、ここでそれまでの系統が断絶されていると考えています。これについても、機会があればご紹介させて頂きます。
うえまつ もとかず(1439)
(授業支援の会)
(元 日本長期信用銀行 昭和女子大学)