只見線で思うこと

メンバーズ・エッセイ
撮影:神永 剛

2024/2/16 (No. 407)
小林 慎一郎
小林 慎一郎

只見線はローカル鉄道の代表格として、多くの撮影ポイントに恵まれているところから、鉄道ファンならずとも、今や大人気の路線である。最初、私も単純に撮り鉄として、軽い気持ちで雪の只見線の撮影に出かけた。残念なことに、気候変動の影響なのかわからないが、雪の季節にも拘らず、霧に霞む雨模様となってしまい、ポスターのような美しい写真は撮れなかった。

しかし、幸いなことに、道路も線路も雪が無く、運休や遅延に巻き込まれずに、時間配分通りのスムーズな行程になったおかげで、地域の資料館や博物館を見学して、学芸員の説明を聞きながら、奥只見の実情を存分に知ることが出来た。

只見線は只見川に沿っている。この只見川は尾瀬沼が水源で、途中には多くのダムがあり、最後は新潟県の阿賀野川になる日本海側水系である。ダムには電源開発、東北電力の水力発電所が建設されている。水力発電には、ダム発電のほか、流水発電、揚水発電があり、只見川沿いの発電量は、只見町10000人の人口を支えるエネルギーとしてではなく、東京に送るための電力となっている。戦後の復興期から、この地域の水資源を利用する決断をした吉田茂と白洲次郎の強引ともいえる推進力は、のちの高度経済成長を支えたことに鑑みると、国家の英断であったことに間違いない。

一方で、ダムに沈んだ旧田子倉集落の自然と文化を伝える「ふるさと館田子倉」の展示を見ると、ダム建設をめぐる集落全体の移転などは大きな社会問題であったことがわかる。半面、水没により突然消滅する地域の自然、農業や狩猟の独自の文化や伝統を記憶する活動が短期間に積極的に行われたことは、日本の旧来の伝統文化を文化人類学者によって記録されて、記憶に留めることにもなった。

話を戻すと、只見線は1926年会津線として、会津若松-会津坂下(あいづばんげ)間が開通。1957年には田子倉ダム建設資材輸送専用線として、川口-田子倉間が開通。1971年に新潟県側と会津地方を繋ぐ難工事の末、沿線住民の悲願の全線が開通している。維新後、取り残されていた会津を日本海側とも繋いだことは、これも田中角栄の政治力であり、地元の人には感謝されている。

しかし、東日本大震災と同年の2011年に只見川が大洪水を起こしている。ダムの存在により、川の流れが緩やかになり、土砂が堆積したことも異常気象に重なり、ある意味では人災とも言える。現在は、電力会社が協力して、毎年、浚渫を繰り返して、水深を確保している。只見線も線路が崩壊し、只見-越後川口間が不通となり、JRは赤字ローカル線の全線廃止を提案したが、地元と県によるJRとの強い要望交渉で国も動き、2022年11月に漸く再度全線復旧開通した。その際、いわゆる線路インフラの管理(下部)の福島県と運行管理(上部)のJRを別会計とする上下分離方式が採用された。会津バスなども国や自治体の補助なども得て、この地域の観光に力を入れている。

最後に、私の趣味の範囲ではないが、奥只見の悲しい現実を題材とした曽野綾子の代表作「無名碑」を芸術座で「桐の花咲く」として若尾文子主演で上演されたそうである。徴兵されていた夫を待ちわびていた妻が戦地から帰還する知らせを受けて、郵便車に同乗して、最寄り駅まで向かう途中、大雪の中で遭難してしまい、戻った夫が嘆き自殺する話である。奥只見の自然の厳しさを描いている。我々同年代の会員には懐かし小説、演劇ではないだろうか。

以上

こばやし しんいちろう(1017)
(元・三菱マテリアル)(ICT/DX推進室、技術部会、モンゴル研究会、理科実験G、授業支援の会、能狂言同好会