エッセイ(随筆)=「筆者が過去に経験/見聞した事を、現在の立場から自身で振り返る」と理解しやっと完成。高校時代は、なんと新聞部だったのですが、この遅筆!
【 青春の全力疾走 】
1920年創設の私立土佐高校。初代校長は三根円次郎(歌手ディック・ミネの実父)『自由教育』標榜。1960年代高知県下の高校生では、唯一長髪が認められていた。『マッシュルームカットが可能な高校生だった』のが密かな自慢。下校前には教室を級友と当番制で掃除。箒をギター、バケツをドラム見立てて、4人並んで「She Loves You」を絶叫。
1966年高一の春休み「春の選抜高校野球」で準優勝。今では当たり前の「守備位置から全力疾走でダクアウトに戻る」姿が全国TVで放映。始業式に全国からの「感動の葉書」が殺到。運動会クラス対抗「自由ダンス」競技では、我が2年T組は「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」をバックミュージックに、応援の生徒・先生・父兄をあっと言わせた。
【 洋画が唯一の外国文化の窓口 】
はりまや橋にあった、土佐電鉄会館が「洋画封切り館」。米軍ベースが無い四国/高知では、映画が唯一の外国文化への窓口。印象に残っている外国映画は『砂漠は生きている』『素晴らしい風船旅行』『チコと鮫』『大脱走』。
中でも『007シリーズ』は、片田舎のまだ中学生だった私には強烈な印象。何しろ、任務を終えてホテルに戻ると、決まって裸の美女がベッドの中にいます。後年、商社マンになったのも、この残像があったかも(ライバル商社のOLだったワイフには、ヒ・ミ・ツ )。
【 イランに企業留学 】
浪人中は「安田講堂事件で入試中止」、大学では洋弓部で「全学ストライキ」もあったが73年入社は石油部配属で、「石油危機」。当時の日本企業最大の海外直接投資IJPC建設もあり、1976年革命前のイランに企業留学。クラスメート:1/3内戦のレバノンから、残りは米国・東欧・韓国の他、中国からの国費留学生4人は全員が人民服。1/3が日本からの銀行・建設・アジ研等。商社仲間のM社・S社・旧N社等からの留学生には、麻雀しながらペルシャ語を習う。
◆ DFにも中東やイラン勤務経験者多数で、≪中東文化経済研究会≫新設もと構想中です ◆
1978年1月、勤務のIJPCの「ホームリーブ規定」を堂々と利用し、PANMAM西周り001便で、テヘラン・アテネ・ローマ・フランクフルト・パリ・ロンドン・NY・ロス・ホノルル・東京からシンガポール・バンコクと28歳で世界一周。あと何回かあると油断?していたら、もう2度とそんな事はかなわない不都合な現状です。
【 天安門事件にも遭遇 】
1989年6月4日日曜日。4歳の長男を真ん中に川の字で熟睡。ワイフが叫んだ「お父さん、戦車が走っています」天安門事件にも遭遇。人民大学横の北京友誼賓館には、同業のS社・M社等も社宅あり、毎年6月4日は、当時の北京駐在経験者との飲み会。
今年2023年はイラン最高指導者だったホメイニ氏の追悼セレモニー(1989年6月3日逝去)があるとの事で、知人経由で、高輪のイラン大使館のランチに招待された。
◆ 最後に:生活やビジネスの大前提となる外部環境は『ある日突然』大変化しうる。が、『見えない未来』に向かい前進あるのみ。コロナ禍もなんとか収まった様に、諦めないで。
かどた さかえ(1406)
(映愛会 授業支援の会 企業ガバナンス部会)
(元三井物産・JETRO 上海アドバイザー)