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一般社団法人 ディレクトフォース

2014年7月28日

100回を超えた「名門高校」シリーズの連載

猪熊 建夫

著者DFの創立とほぼ同時期に入会した猪熊建夫(いのくま・たてお)です。会員番号の[007]は語呂が良いので、誇りにしています。

「エコノミスト」という週刊誌が、駅のスタンドや本屋で売られています。その雑誌で、12年7月以来、毎週、『名門高校の校風と人脈』という連載を続けています。14年8月4日発売の号(夏休み合併号)では、富山県立富山高校を掲載していますが、これで通算105本目になります。

高校時代は、まさに青春真っ盛りです。人生で一番、多感な時期です。甘酸っぱい憶い出を誰しも、抱いています。それに、出身高校はその人の郷里・古里と密接に結びついています。

大学は、興味が湧きません。今さら早稲田だ慶應だ、東大だ京大だといっても、何の感興も私にはありません。大学生になると、人はかなり功利的でイヤらしくなります。それに出身大学を聞いても、その人の出身地はわかりません。しかも「名門」と言われる大学は限られています。

そこで私は、30〜40年前から、人の出身高校を頭に刻み込むことを、趣味としてきました。私はかつて毎日新聞社の記者をしており(その後、㈱船井総合研究所取締役などを歴任)、その職業柄も影響しています。

政治家、大企業社長、文化人、スポーツ選手、芸能人などいわゆる著名人の出身高校を、まあ、数千人は言えるだけの蓄積ができました。身のまわりの知人、友人についても500人くらいは、わかっております。

DF会員についても、これまで接触した150人くらいの会員の出身高校を、おさえております。会員のうちの数十人からは、すでに取材でお世話になっており、この場を借りてお礼を申し上げます。

「名門高校」シリーズ100回目が掲載された週刊「エコノミスト」7月8日特大号

てなことで、古巣の毎日新聞社の後輩が編集長をしている週刊「エコノミスト」で連載を続けているわけです。当初は150回くらいの予定でしたが、あちこちから「うちの(自分が出た、息子・娘がでた)高校も」という要望が相次ぎ、この調子では計300回は続ける見通しです。2018年までかかるでしょう。その後、書物として出版するつもりです。

取材に当たっては原則、当該高校の校長と同窓会事務局長に会い、さらに個人的な伝手を駆使して一般の卒業生にもインタビューします。インターネットでは、大方の著名人の略歴が見られますが、大体は出身大学までで、出身高校(あるいは旧制の出身中学)は出てきません。万全を期すために綿密な取材をするわけです。

名門高校を訪問することを奇貨として、北海道から沖縄まで旅行ができることも、この連載を続ける役得のひとつです。執筆・連載を毎週毎週続けていることで、ボケ防止にもなるという効用もあります。

取材・執筆をつうじて認識を新たにしたことが、いくつかあります。ここでは2点だけ、述べさせていただきます。

東京には当然のことながら名門高校がたくさんありますが、ノーベル賞の受賞者はたった1人しかいない、という事実です。1987年に医学・生理学賞を受賞した利根川進氏です。彼は日比谷高校出身です。ただし、日比谷ー東京大の定番コースではなく、大学は京都大理学部に進学しています。

日本人のノーベル賞受賞者は、2012年のiPS細胞の山中伸弥氏までで計19人を数えます。その内、18人が東京以外の高校で育っているというのは、どういうことなのでしょうか。「東京の名門高校出身者は、ほどほどまで行くが、ブレーク・スルーができない」という、かねてからの指摘がぴたりと当てはまるようです。

もうひとつは、ナンバースクールの創立です。県立旧制一中の設置場所は、幕末・維新の大名地図や官軍・賊軍の違いがストレートに反映されている、という事実です。

典型例として滋賀県のケースを見てみましょう。滋賀県には膳所(ぜぜ)高校と彦根東高校という2つの県立名門高校があります。両校の内、旧制時代に県立一中だったのは、県庁のある大津市の膳所高校ではなく、彦根市の彦根東高校なのです。

幕末に井伊大老を出した彦根藩は25万石の雄藩でしたが、膳所藩は6万石にすぎませんでした。これが影響して,明治政府は県庁は大津にしたものの滋賀県立一中は、彦根に設置したのです。

滋賀県の例は実は、幕末の勢力図に留まらず、井伊家が関ヶ原の戦いで家康側についたことに淵源があります。つづめて言えば、関ヶ原で東軍が勝ったことによって、滋賀一中は彦根に置かれることになった、ということです。

福島県のケースは、もっと複雑です。一中=安積高校(郡山市)、二中=磐城高校(いわき市)、三中=福島高校(福島市)で、会津高校は四中にもさせてもらえませんでした。

エコノミスト誌の13年7月2日号で、50番目として会津高校を掲載しました。「『かりそめな恋』で初めは私立」という見出しで、合津藩の悲劇が旧制中学の創設まで続いた事実を書きました。著作権は小生が持っていますので、掲載された文章の全文をここにコピーします。

時間のあるご仁は、どうぞご笑覧ください。

週刊エコノミスト「名門高校の校風と人脈」13年7月2日号

第50回 会津高校

・・・・・全文

NHKの大河ドラマ『八重の桜』の影響で、会津が観光ブームになっているという。ドラマは、理不尽にも朝敵=賊軍に追いやられてしまった幕末の会津藩の悲劇を、会津藩士の娘に生まれた山本八重の前半生を通じて描いている。

明治になっても会津は薩摩・長州閥の官軍=新政府に何かと疎んじられるのだが、実は会津高校は、前身の会津中学の創立時から苦難のスタートを強いられている。

福島県は幕末、計11の藩が林立していた。断トツの大藩は会津・松平家23万石であった。だから他県の例にならえば、福島県の県庁と県立一中は会津に設置されてしかるべきだった。

だが、明治政府は県庁を福島にもってきた。福島藩はたった3万石の小藩にすぎなかったが。また県立の最初の中学は、守山藩の郡山に創設した。現在の安積(あさか)高校である。守山藩はやはり2万9千石の小藩で、水戸徳川家の支藩にすぎなかった。親藩だったが、戦わずしていち早く官軍側に寝返っている。

会津中学は1890(明治23)年に私学として開設された。1899(明治32)年にようやく県に移管されて、今日の会津高校の前身となった。ただし県立二中(現磐城高校)、県立三中(現福島高校)に次ぐ「四中」にはさせてもらえなかった。明治新政府により忌避されたのである。

司馬遼太郎は『王城の護衛者』で、「会津松平家というのは、ほんのかりそめな恋から出発している」と書いている。会津高校がナンバースクールになれなかった淵源は、この「かりそめな恋」にある、といっても過言ではないのだ。

徳川2代将軍秀忠といえば、やはりNHKの11年の大河ドラマ『江 ーー 姫たちの戦国」のヒロイン・江が3度目に嫁した相手である。だが、江の死後、秀忠に婚外子がいることが判明した。保科正之で、のちに会津の初代藩主となった。つまり、正妻である江に隠れて秀忠が浮気をしたことで、会津藩が誕生したのである。

3代将軍家光(江が生んだ子)はこの異母弟を深く信頼し、正之は家光の死後、その遺命により4代将軍家綱の将軍補佐役(大老格)として支え、「パックス・トクガワーナ(徳川による平和)」の礎を築いた。以来、会津藩は徳川宗家にたいするロイヤリティーがめっぽう強く、「将軍を一心大切にせよ」が代々、藩の家訓となった。

200年以上も経過した幕末動乱期になっても、会津藩はその家訓をかたくなに守った。徳川幕府に忠誠を尽くした会津藩は、官軍(薩長)にとって怨念の標的となってしまった。悲劇の地になった謂れである。その累が会津中学の設立にまで及んだのである。

会津藩士の息子でのちに東京帝国大総長になった山川健次郎らが中学校設立の運動に立ち上がり、これを旧幕臣の文部大臣・榎本武揚がバックアップして、ようやく私立会津中学としてスタートしたのであった。

北関東の旧制中・旧制高女を前身とする伝統高校は、1948(昭和23)年の学制改革でも男女共学に踏み切らなかった。それは現在でも続いている。東北地方の伝統校も長らく男女別学が続いていた。しかし、この10年ですべてが男女共学化した。

新制会津高校は、ぐらついた。1951(昭和26)年に女子に門戸を開き、13人を迎え入れた。5年後には、共学を廃止し、男子校にもどった。福島県内の公立伝統高校が順次、共学化していくのに歩調を合わせ、50年弱たった2002年に会津高校もあらためて男女共学制を導入した。現在では、男子55・女子45という比率の生徒数になっている。

校是は「好学愛校文武不岐」である。目指す生徒像のひとつに「気品を備え、『会津人』としての粘り強さ、礼儀正しさ、奉仕の精神を有する生徒」を掲げている。

13年の大学入試では、京都大に1人、東北大に14人が合格している。約20年前には東京大合格者が福島県内の高校でトップだったこともある。

会津若松市は福島県内の奥深くにあるため、東京電力福島第1原子力発電所の過酷事故の直接的な被害は受けていない。しかし、事故後に動向が頻繁にニュースに取り上げられる卒業生がいる。12年9月から環境省の原子力規制委員会初代委員長に就任している田中俊一である。

田中は東北大・原子核工学科に進み、日本原子力研究所に長く勤めた。民主党政権のもとで委員長に就任した際には「原子力ムラの人間ではないか」と批判されたが、自民党政権下の現在では「唯我独尊に陥っている」と原発早期再稼働を主張する推進派からの批判が絶えない。

すっかりニュースから遠ざかった卒業生は、衆院議員として当選14回を続けた渡部恒三である。「政界の御意見番」「平成の水戸黄門」というキャッチで、テレビで洒脱なコメントを披露してきたが、2012年12月の衆院選を機に政界を引退し、会津に引っ込んだ。

政治家では、自民党の実力者でありながら金権政治には無縁のクリーンさで知られた伊東正義という卒業生もいた。外相や内閣官房長官などを歴任、1989年にリクルート事件で首相を退任した竹下登(島根県立松江中・現松江北高校卒)の後任に押され固辞した際の「本の表紙を変えても、中身を変えなければ・・・」というフレーズが有名である。

官界で活躍した人物としては、初代最高裁判所長官を務めた三淵忠彦が旧制会津中学から山形県立旧制荘内中学(現鶴岡南高校)に移った。鉄道省の技術官僚だった黒河内四郎は東京高速鉄道の新橋 ーー 渋谷間の地下鉄設計・建設を指揮した。現在の地下鉄銀座線の一部である。柏村信雄は警察庁長官を、やはり警察官僚出身の川島広守は、内閣官房副長官やプロ野球コミッショナーをした。12年12月に死去した。

経済界では、日曹コンツェルン創業者の中野友礼、大蔵官僚出身で日本不動産銀行の初代頭取をした星野喜代治、大成建設社長をした本間嘉平、旭硝子社長をした倉田元治、秋田銀行頭取をした前田実らが卒業している。伊藤文大はクラレ社長、北村清士は東邦銀行頭取である。

新井田伝は、父が会津若松市内に開店した食堂を、ラーメンチェーンの「幸楽苑」として拡大させ、東証1部上場企業に育て上げた立志伝の持ち主である。

学者では、政治学、理論経済学、法社会学など幅広い学問領域をこなした小室直樹、国立天文台副台長の天文学者・渡部潤一が著名である。小室は母子家庭で貧しく、前述の同級生渡部恒三が生活を援助した。

さらに、梅毒の研究をした医学者で大阪医科大学長をした松本信一、歯学者で日本大学総長をした鈴木勝、農林経済学者で京大教授のあと平安女学院院長をした菊地泰次、国際法学者で青山学院大学長をした大平善梧らもOBである。筆者は京大の学生時代に菊地の講義を受けた。

偉人伝で知られ、新千円札の肖像にもなっている細菌学者野口英世は、自筆履歴書には私立会津中学に課外特選生として通学したことが記されているが、学校側の記録には残っていない。

文化人では、芥川賞受賞の小説家室井光広、映画監督の仁科熊彦、映画カメラマンで「男はつらいよ」の撮影をした高羽哲夫、作詞家の石原信一らが卒業している。牧師の矢部喜好は、良心的兵役拒否を日本で初めて行った人物である。

若手では、作詞・作曲、サンボマスターの山口隆が卒業している。福島県出身の4人でバンド「猪苗代湖ズ」を結成し、東日本大震災のチャリティー・ソングを作って、11年大晦日のNHK紅白歌合戦に出演した。

スポーツでは、ハーフマラソン日本記録(1時間0分25秒)を持つ佐藤敦之がいる。08年の北京五輪マラソンでは76位の最下位だったが、会津魂を胸に完走した。ゴール直後には、いつものようにコースに向かって最敬礼をし、観衆の共感を誘った。

以上

いのくまたてお ディレクトフォース会員(007)
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