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一般社団法人 ディレクトフォース

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 2021/03/01(No.336)

自分史作りを通じて戦後史を学び直す

高野 直人

2021年1月12日、「歴史探偵」を自称する昭和史の語り部であった 半藤一利はんどうかずとしさんが享年90歳で亡くなりました。

会社生活を終えた後、わたしが目標としていた一つのが「自分史」を作るということでした。当時、立教大学がシニア世代向けの「セカンドステージ大学」を運営していました。そのカリキュラムの一つとして立花隆が「現代史の中の自分史」というテーマで講義をしていました。当時、これに参加する予定をしていましたが、ディレクトフォースの事務局に勤務することとなり、断念しました。そこで立花隆が著した『自分史の書き方』を参考に細々と自分史作りを始めました。

立花隆が指摘していた自分史作りの要点は以下の3点です。

  1. 記憶を紐解いて事実を書き記すだけでは意味がない。それぞれの時代背景となった政治・経済・社会の動きの中で自分の歩んだ道を描くこと。
  2. そのためには、自分の生きて来た時代の年表をまず作成すること。
  3. その上で年表に沿って自分の辿った活動の波=山・谷=を描いてみること。


立花 隆 1940-
ジャーナリスト 評論家
ノンフィクション作家

立花隆の指針を踏まえて、半藤氏の膨大な昭和史の著作を紐解きつつ、まずは年表づくりに取り組みました。それ以来、国立国会図書館を含めて頻繁に図書館に通い、戦後史に関わる書物を片っ端から借り受けて目を通す日々が続きました。その中で実感したのは、如何に自分が「戦後史」を知らなかったかということです。良く指摘されるように高校時代までに学んだ歴史の授業は、多くは明治維新で終わっていました。戦後民主主義は所与のものとしてそこに至る道筋をしっかりと学んでいなかったことを痛感しました。

わたしが生まれたのは昭和22年3月。団塊の世代の一番手で、その年の出生数は268万人弱でした。この年の5月に日本国憲法が発布され、それに先立つ3月に施行されたのが教育基本法です。従って、自分史とは即戦後史であるということです。

物心ついた頃、貧しい日本の中で全く異なる世界が広がっていました。広大な土地を占有する進駐軍の姿でした。わたしが生まれた時代、日本は「独立国」ではなかったのです。西日本にはアメリカ陸軍第六軍が進駐し、生まれ育った滋賀県大津市には136連隊2,910名が進駐していました。県庁舎や老舗ホテルの接収、広大な土地に蒲鉾型の米軍兵舎、人糞肥料を使った作物を避けるための水耕農園の設置等々、子供心には何と豪華な施設かと感心して眺めていました。

こうした学びを通じて実感したのは、個々の歴史的事実を知るだけではなく、その時々で当事者がどう行動したのか、そしてこうした歴史的事実を俯瞰した上での歴史認識を学ぶことの大切さでした。


金森徳次郎 1886-21959
政治家 憲法学者 初代国立国会図書館長

例えば、日本国憲法について「占領軍の押し付け」といった論調が今でもあります。当時の国会においては一条、一行、一字一句が審議され、憲法担当国務大臣であった金森徳次郎は千三百何十回に昇る答弁を行ったと記録されています。昨今の国会審議における歴代首相の答弁とは雲泥の差があります。現在、国立国会図書館に「真理がわれらを自由にする」という書が掲げられていますが、これは金森徳次郎の揮毫によるものです。国立公文書館には憲法改正の経緯を紹介する様々な資料が展示されています。憲法発布後の1948年には文部省から『民主主義』という中高校生向けの冊子が発刊されたことも知りました。近年、角川ソフィア文庫から復刻発刊されました。第一章の「民主主義の本質」から始まり全450頁にわたる大著で、現代にも通ずる女性の権利に関する章も設けられています。終戦直後には教科書の多くの部分を墨で塗り潰させた文部省が、終戦3年後にはこうした冊子を発行したのです。

戦後史を理解する上で、欠かせないのが戦前・戦中の歴史です。近代史の歴史学者である加藤陽子東大教授が著している多く著書も欠かせない文献でした。個々の歴史的事実を検証しつつ、それらを断片としてではなく大きな歴史の流れの中に位置づける手法は大変、優れたものです。加藤教授は、昨年来、問題となっている日本学術会議の会員候補として菅内閣が任命を拒否した6名の内の一人です。彼女の著書の中で、神奈川県の私立栄光学園の授業の内容をまとめた『それでも日本人は「戦争」を選んだ』がベストセラーとなりました。高校生からの瑞々しい意見も織り交ぜて編集されており、後日、小林秀雄賞を受賞した作品です。また、半藤氏と加藤氏の対談集『昭和史裁判』も興味深い作品でした。


半藤 一利 1930-2021
ジャーナリスト
戦史研究家 作家


加藤陽子 1960-
歴史学者 東京大学教授


新潮社
初版発行: 2009年7月

こうした一連の学びの中で、終戦後、昭和天皇が国民に対する「謝罪文」を準備していたこと(加藤恭子著『昭和天皇「謝罪詔勅草稿」の発見』)や、幣原内閣の下で満州事変から敗戦に至る原因と実相を分析するために「戦争調査会」が設けられたこと(井上寿一著『戦争調査会』)等を知りました。前者の天皇謝罪文は、天皇の戦争責任が蒸し返されることに対する懸念からお蔵入りとなりました。また後者については、40回におよぶ会議が続けられたにも拘らず、東京裁判が開始されたこともあり、GHQの指令により吉田首相は調査会を解散させました。

生後70余年を対象とした自分史であり、また暇を見つけての学びであったため、一応の完成を見るには10年の月日を要しました。そして完成した後に発生したのが世界を覆うコロナ禍です。今、この推移を記録し始めています。


ワイツゼッカー(大統領) 1920-2015
政治家 貴族 弁護士
西ベルリン市長 第6代連邦大統領

ドイツ(当時は西ドイツ)のワイツゼッカー大統領は、戦後40年にあたる1985年5月8日に連邦議会で演説しました。5月8日はヨーロッパで第二次世界大戦が終了した日です。彼は、5月8日を「心に刻む日」と繰り返し、「過去に目を閉ざす者は結局のところ現在にも盲目となります」と歴史認識に対する警鐘を鳴らしました。

最後に、世の中には自分史を自費出版する事例もありますが、わたしの自分史は学びの歴史であり第三者へ提供できるような内容ではありません。NHK風に言えばわたしの両親、祖父母の歴史も含めたファミリー・ヒストリーを追加し、孫・子に渡そうと考えています。そのためタイトルは「わが家のファミリー・ヒストリーと自分史~孫・子に贈るメモワール~」としています。エンドマーク

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