2021/02/16(No.335)
四方 満
念願かなった松井秀喜
ベースボールミュージアム にて
2020年 北陸を旅行した際に立ち寄った
2003年、赤坂のDF事務所で当時の水野代表、合田リーダーに面接を受けその場で入会となった。
2年後の秋、事務長より「四方さん修士論文書き上げたの、卒業は出来たの」と問われ「ベンチャービズネス支援事業部を立ち上げるので手伝って」と乞われ、「やりましょう楽しいそうですね」と言って引き受けた。
中村屋の役員退任直後、多摩大学大学院MBAコースに入学、自分の子供と同年代の院生と机を並べていた。
40年余サラリーマン生活をしたが、顧みると世間との乖離が大きく、少し広い視野や情報そして若い人との交流により、刺激を受けることがこれからの余生には必要と感じ、退職金から入学金と2年間の授業を差し引いて妻に渡したのを覚えている。
院生では最高年齢であり多くの教授より年齢が上の院生として2年間品川に通った。
当時の多摩大学院は中谷学長(ソニーの社外役員で取締役会座長)をはじめとして、専門性の高い教授連の中に大手商社の元役員、三菱総研元理事、童話作家で街づくりの権威や興味のある先生が多く楽しいものであった。
院生たちは平均年齢33歳と働き盛りで、250万円の授業料を個人で払い、会社終了後直行し受講・発表に毎日取り組み、卒業後キャリアアップし新天地を目論んでいる。
講座には、「ベンチャービジネス論」があり受講し浜田隆道講師と親しい関係となった。
浜田隆道氏は、東大卒(ゴルフ部主将)後経産省に入省、キャリアを歩み富士電機専務から東京商品取引所社長を歴任していたが昨年6月を以って所を退任した。
2010年にはDFの勉強会で講師として講演をして頂いた。
DFの売上高は300万円/年前後からのスタートだったと思う。
案件は1ケタ毎月10万円の支払いが出来ず3万円程度で支援をした企業もあった。
大学院の授業ではベンチャー企業は4段階(或いは5段階)に分類され、最終段階にはIPOにより投資家からの資金援助そして上場へとの成功の道を辿るが、それは志してから約3%程度の人であり厳しいものであった。
DFに支援を求める企業は1~3段階がほとんどであり、結果を求める前の経過に支援するものであり、それはDFとして社会貢献が出来るステージになると思った。
浜田隆道氏にベンチャーの元締めであり関係組織を束ねる経産省新規産業室を紹介してもらった。
民間企業として3社、MIT日本校、国内各大学等々がそれぞれの目的をもって育成をしている。経産省からの出向者を中心とした支援ネットワークがあり表裏を使い入れながら支援をしていた。
私は紹介された全ての組織を訪問、或いは参加しながら現状を把握していった。
民間企業A社(代表者日本銀行出身)、B社(代表者NEC元技術部長)。C社大阪本社(大阪まで行って面談した)が、数年後にはA社、B社(代表者が私財1億円を使った)が消えていった。
慶応大学では、年末に企業支援発表会が一日かけて行われ、1位には100万円が賞金となった。年度内で31チームが登録し大会には予選を勝ち抜いた6チームの発表の場となった。1位になったチームは「中国の田舎でインフラ整備を立上げる」中国留学生の出身地であり、そこに日本人も一般企業に就職せず現地で取組むものであった。
新規産業室長とは頻繁に情報交換が出来た。
日時を決めて、12時に日比谷公園内の松本楼で待ち合わせた。
経産省は12時から1時間が昼食時間であり4人でランチ(割勘)、たっぷり時間が取れお互いに情報交換の場となった。
DFでの支援企業の発表会にご案内をすると若い女性担当官が参加となりお互いに情報交換が出来、二次会は楽しいものとなった。
当時民間保育園は不足しており、その中で多様なニーズが求められ国の制度だけでは不十分な面があった。
DFはA社の狙いの地域や人事の支援を行い、結果、千代田区は住民以外の園児を拡げ、三菱地所、三井不動産、読売新聞本社への保育施設の展開の支援を行い、現在32の施設と聞いている。
新規企業の面談はDF事務局で、支援チームは月に一度の審査によって採用の合否と支援メンバーをリストアップしてスタートした。
売上は20倍強となり、それと共に案件が変化していった。
大企業の新規事業支援、地方や行政からの処々の案件が生まれ、ベンチャーとはかけ離れたものが多くなり、企業支援と名称を変更した。
6年余り担当してDFに何らかの貢献をした自負があるが、私にとっては世の中の進化への参加一員になった喜びがあり同時にDFに育ててもらった感がする。
しかたみつる(225)食と農業研究会
元中村屋