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 2017/12/01(No258)

自分を変えた他人の言葉

武田 晴夫

私

72歳でTUMI*の大きなカバンを持ち東奔西走している自分を毎朝鏡の中に見つけ、喜ぶべきか悲しむべきか悩むことがある。人はその悩みを贅沢な悩みというかも知れない。2年半前に狭心症を患い「69歳の坂は急だわね」と妻に言われ、「ああ、自分の人生は終わった」と嘆いたものだが、DF会員の方々のエッセーに触発され、自分の心に喝を入れてもらったお蔭で今日がある。

実際、スマホの歩数計も月間約27万歩だから若い現役営業マンに引けを取らない程元気である。

さて、表題に関し、真っ先に浮かぶのは、19歳の夏(昭和39年東京五輪の頃)に見た勤務先の大手自動車会社の朝礼解散直後の場面。朝礼は部長を頭に3つの課の従業員が自席で起立して毎週月曜日朝8時から行われていた。事務員・現業を含め80人位は居たと記憶している。それが終わった直後、若い課長が彼の父親のような年齢の部下を「柴田(仮名)く〜ん、ちょっと来てくれ」と呼びつけ、暫くして「ダメじゃないか!」の罵声。柴田さんは、入社したての私には親のような存在で、仕事のことは別にして部内の人間関係情報に長けていた。

その柴田さんがなぜ叱られていたのか分からない。当人達は何の違和感もなく上司部下の組織的な会話で、年長の柴田さんが俯いて詫びている様子。ただ、長幼の序列が厳しい田舎出の私には、衝撃的な場面だった。若い課長がウンと年上の部下を呼び付け叱咤する場面に、仕事は楽しくても同社における私の将来の姿を見てしまった気がした。直接私に向けられた言葉ではないが、その風景を容認する器が自分には無かったので退職を決意。田舎には、職に付いたら「石の上にも三年」「その我慢が出来ないものは社会の落伍者」と後ろ指を指される風潮があったので、昭和40年暮れの帰省時も両親はもちろん友人や同級生にも退職は内緒。ただ、この正月明け1月7日からは中野区の某新聞専売所に勤めることは決めていた。

20歳頃の私。朝夕刊の配達や集金など精力的に働いていた

次に浮かぶのは、お客様との会話。20歳の私は、朝夕刊の配達や集金、読者の勧誘、折込広告の他販売店への配布など、すべて引き受ける専業者的な勤務に適性があった。20数人居た同僚の中でも半年位で店長からすっかり期待される存在になっていた。年金受給の年齢になって初めて気付いたが、厚生年金にも入れてもらっていた。当時の自分は、何か資格を取って自立することを考え、店の仕事の合間に中野駅に近い新宿の簿記学校に通った。

集金のときはお客様と何気ない会話をするが、4月・5月の集金で同じお客様と同じ内容の会話。「年はいくつだ」「20歳です」「若いのだから大学へ行け」「年はいくつだ」「20歳です」「何か勉強しているのか」「はい、簿記を勉強しています」「資格などいつでもとれる。若いのだから大学へ行け」と、先ず大学に行くことが何よりも大事なようなことをおっしゃる。私は父から「お前は二男だから将来は家を出る」「家を出るにも手に職をつけなければ食っていけないから高校までは出してやる」「洲実(洲本実業高校)へ行け」と言われ、その延長で、自動車会社に就職したのだが、「大学へ行け」とは一度も言われなかった。兄弟が6人も居たから日々の暮らしが精一杯だったと思う。また、自分も親に頼っての大学進学など思ったこともなかった。親が親なら子も子と言った感じ。ただ、大手自動車会社では、学歴が重要なことは柴田さんから聞かされていた。しかし、20歳になっていたから、薹が立って、もはや後の祭りと思っていた。ところがそのお客様は、数え年21歳の私を見て「若い」「若い」を連発される。しかも進学の勧め。7月の集金では、その方がシベリヤからの引揚者であることや社会と学歴の話など事細かく話される。7月の集金では「どうだ、進学の気持ちは固まったか」「‥‥ 」「若いのだから、先ず大学へ行け。それから人生を考えなさい」「‥‥ 有難うございます」。この頃は、専業待遇の新聞屋でソコソコのお金は貯め込んでいた。進学後大学派遣米国交換留学までの2年間強は新聞屋さんでもあった。

最後の決定打は、大学時代の級友の言葉。昭和48年夏。第1次オイルショック直前。「うちの会社で宅建資格を持った人がどうしても必要だと言っている。来ないか」。「今勤めている会社にも辞表は出しているから、ある意味、渡りに船だが‥‥ 自分は、会社員は向かない。不動産鑑定士になりたいから、仮に行っても2・3年で辞めるよ」「それでもいい。役員面接をやるから、土曜日午後2時伊勢丹会館のサウナに来てくれ」と言われ行ってみた。級友とサウナに入り、そこで彼の上司数名を紹介された。裸だから名刺などはない。彼らはマッサージをしてもらうというので、午後4時に近くの小料理屋に再集合を命じられた。ここの料理は美味しかった。面接のときには北アルプス登山の写真を見せる等、どうでもいいと思っていた。ところが、「元気なのが気に入った」と言われてしまった。

入った会社の社風が入社の瞬間から私に合ったのか、扱かれれば扱かれるほど都市再開発向きの精神構造に変わって行った。諸行無常で30年間勤めた会社の整理解雇も終わったのち自らを整理し独立開業。15期目の今は不動産鑑定業都知事(2)、宅建業都知事(3)の登録となっている。社員らの子供を孫とも思い生涯現役で歩む覚悟である。エンドマーク

たけだはるお ディレクトフォース会員(333)
元フジタ工業(現フジタ)

【編集註】*TUMI:トゥミは、1975年にアメリカで設立されたバッグメーカー。主にビジネスマン向けの高級ブランドで、ユニークでクールなデザインで知られている。

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