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 2017/1/16(No237)

漱石の俳句と私

米永栄一郎

筆者

今年は漱石の没後100年、来年は生誕150周年の節目の時期に当たり、最近は漱石に関する催事、TV番組等が目白押しである。2017年9月には、漱石フアン待望の「夏目漱石記念館」が生誕の地、新宿区に完成することが予定されている。

漱石については、数多の研究者により様々な角度から明らかにされている。私が常勤の仕事を終えてから、興味を持っていた漱石につきそれまで読めなかった作品、評論等に手を付けてみてびっくりした。漱石作品の文学論の他に「漱石のレシピ」「神経症夏目漱石」「漱石と仏教」「漱石のあたたかい科学」「漱石がみた物理学」「漱石の天皇制」「漱石の美術愛」等五万とあった。100冊程度読んだところできりがなく、この頃は控えているが、漱石に関連する書物は途切れなく続いているようである。

漱石との俳句の出会いは、会社の先輩からの年賀状の一句にあった「元日や吾新たなる願いあり(漱石)」 であり、漱石にしては直截的な句であったが何となく印象に残り、これを機に自分も俳句をやるようになり6年となる。それまで漱石俳句については興味を持っていなかったが、自分で詠み、漱石の俳句を読むようになってからその偉大さをあらためて知るようになった。

(クリック拡大)

左横はNPOのマスコット「漱石人形」(詳しくは拡大写真で)

漱石は生涯において約2,600句を残し、小説家になる前には一時俳人と見なされた時代もある位俳句を愛した。子規との親交を深めて句作を開始し、松山、熊本赴任中は最も多くの句を作った。英国留学時代、帰国後の大学講師を経て小説家としての生業を営みはじめ俳句からは遠ざかっていたが、晩年大病をしてから俳句を再開し、それぞれの境遇を映した素晴らしい句を残した。漱石にとっては漢詩と並んで俳句は息抜きとなっていた。句歴も浅く浅学の身で恐れ多い事だが、漱石先生の句を誌面の許す限りで鑑賞してみることにする。


漱石が1年間松山の中学で教鞭をとった後、熊本の五高に転任となった時に送別の句として虚子宛てに書いた句である。実際に一番日が長いのは夏至の前後であるが、春は冬が去って一段と日が長く感じる。普段は人前で欠伸をしないような実直な人間でも親しい仲間でつい油断して欠伸が出て、それが相手にも移る。男同士多くを語る事はないが、気心の知れた相手ではほっとする。漱石は心ならずも松山に下り、高給で五高に迎えられたとはいえ、更に西下することになった。心境は複雑なものがあったとは思うが、それを感じさせないゆったりとした句になっている。

明治30年熊本時代に詠まれた漱石俳句の中でも有名な句である。一番多く句作がされた時であるが、逆に言えば必ずしも自分に合っていないと感じていた教師生活の重圧から逃れる術であったのであろう。菫のような小さいものに目を留める時は、気持ちの余裕があり菫をいとおしく思える時か、哀しみの中で慰めを求める時だと思う。漱石は生涯、神経衰弱に悩まされていたが、熊本時代は比較的安定していた時期といわれ、菫を見て心から慰められたであろう。

大正5年芥川龍之介の手紙に残された句である。まだ途中で読み終わらないのに秋になってしまった、あるいは読み残しの本があるのに夏は去ってしまったということであろうか。芥川は漱石の最後の方の弟子であるが、その作品には大きな期待をかけていた。自分はもう余命幾ばくもなく、やり残したことは多いが、後は若い君達がやってくれという願望が句に込められているようだ。漱石の辞世の句と言って良いのかもしれない。

最後に拙句を一句


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