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一般社団法人 ディレクトフォース

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2015/11/15(No209)

少林寺拳法の日中交流

米田 敬智

筆者

1.2015年少林寺拳法グループ訪中団

学生時代に少林寺拳法にのめり込んでいたこともあり、ビジネス界からリタイアして2年後の今年、少林寺拳法グループの日中交流プロジェクト委員会の委員長を仰せつかることとなりました。その最初の大きなプロジェクトが7月の少林寺拳法訪中で、北京、鄭州、登封等を訪れ、中国各地で日中交流を進めてまいりました。実は昨年にも東京大学少林寺拳法部創部50周年記念として訪中したのですが、今年は宗由貴(そうゆうき=写真下 )総裁を団長とする83人の大型ミッション、中国の受け皿が中日友好協会といったことなどから、公式行事の色合いが強く、訪中団の秘書長として殊のほか気を遣う、逆に言えば大変やり甲斐のある旅でもありました。幸い、中国との交流、団員の達成感といった点で、なんとかプロジェクトの所期の目的は果たせたのではないかとホッとしています。

宗由貴総裁
宗由貴総裁 
少林寺拳法グループ

北京では、中国対外友好協会、中日友好協会との懇親交歓会で、少林寺拳法日中交流40年の映像放映、東日本大震災への中国側の支援・激励に対する感謝、そして中国側大学生との熱い交流などが行なわれ、マスメディアの取材もありました。鄭州大学では、宗道臣文庫(後述)の落成記念セレモニーや現地学生の日本語スピーチ、テーマごとの交流座談 会など熱心に繰り広げられました。登封の目玉は何と言っても、嵩山少林寺(すうざん しょうりんじ)の訪問です。あの「少林寺」の文字の見られる山門から始まり、宗道臣帰山記念碑、鼓楼、白衣殿など、日本の「少林寺拳法」命名の由来となった境内を精力的に見学し、また武僧の朝練や周辺の武術学校の表演などに昔の若き血が燃え滾ってきた団員も多かったようです。

この嵩山少林寺には、昨年方丈(住職)の釋永信師から頼まれた、日本にある嵩山少林寺の写真資料について調査報告するという宿題がありました。少林寺はかつて軍閥の抗争などでその建物や文物の多くが焼失したのですが、それより前に撮った写真資料がどういうわけか東大等に遺されているらしいということで、この1年間その調査、資料収集に当たって来たものです。東洋文化研究所や工学系研究科建築学専攻の教授陣、さらには東京国立博物館の方とも頻繁に接触し、遠くは東北の山形県にまで足を運びました。とにかく100年も前の写真、それもガラス乾板のレベルですので、調査は難渋を極めましたが、なんとか一応の形は整えることができました。写真や目録を手にしたときの方丈の、少年のような目の輝きと満面の笑みに、ささやかながら日中交流のお手伝いができたかなと、共に喜びが湧いてきました。

(以下一部の画像を除いてクリック⇒拡大)
嵩山少林寺山門にて 釋永信方丈に写真と目録の贈呈

2.中国・嵩山少林寺 と 日本の少林寺拳法

ここで嵩山少林寺のことについてお話しますと、中国五岳の中岳である嵩山(河南省在)は、太室山と少室山の二つの山系から成っており、その少室山の叢林に在る寺、ということで「少林寺」の名前の由来になっています。嵩山少林寺は中国禅宗のメッカ、総本山で、建寺は古く西暦495年。かの達磨大師が仏教中興の志をもって入山したのはそれから30年ほど後のことで、禅の教えと印度拳法を基に「禅」「武」「医」一体の修行を伝え広めたと言われており、達磨大師は「禅宗の初祖」「武術の鼻祖」として中国では大変崇められています。日本のダルマさんのイメージとはだいぶギャップがありますね。禅宗については初祖の達磨大師から数えて六祖の時代に、慧能の南宗禅と神秀の北宗禅とに分かれていき、前者の系譜がご存知の通り臨済宗、曹洞宗、黄檗宗といった形で日本に伝わってまいりました。

一方、少林寺の武術の方はつとに名を馳せ、「天下の武芸、少林より出づ」の言い伝えのごとく広く中国全土に広がり、今日の日本の空手(唐手)や韓国のテコンドー、タイのキックボクシングなどはこの流れを汲むと言われております。その少林寺を一躍有名にしたのが、隋の末期、少林寺13人の僧が唐の李世民(後の唐太宗)を敵から救った武勇伝です。これは映画「少林寺」にも詳しく描かれていますが、その功績を多とされ、唐代に入り恩賜を得て「天下一の名刹」の雅号をほしいままにし、明代には寺僧2千人を超す大寺として栄華を極めました。しかし時代が下るとともに数多の災厄に見舞われ、特に清代の武術禁止令と中華民国初期の軍閥の抗争で、さすがの少林寺も存亡の危機に立たされることになりました。第二次大戦中、のち日本の少林寺拳法の創始者となる宗道臣師が訪れたのも、そうした受難を引き摺っていた時代のことでした。

日本人・宗道臣師の創始した少林寺拳法のことにも少し触れないといけません。宗道臣開祖は戦前と戦中に中国で身につけた拳技を戦後日本に持ち帰って、人づくりのための行として独自の技法を編み出し、「自己確立」「自他共楽」の教えに沿った教育システムを確立し、「少林寺拳法」と名付けました。命名の由来は嵩山少林寺で目にした白衣殿の壁画ですが、そこに描かれた修練の様子に心を打たれ、達磨大師が遺した修行の在り方をヒントに、「拳禅一如」とも「力愛不二」とも呼ばれる身心一体の修行法で、身体と心を同時に高める体系としてつくりあげたものです。いまや世界に拳士・会員数は延べ170万人に上っていますが、これには護身術としての魅力による面も大きいと思われます。「守主攻従」とか「剛柔一体」「組手主体」などが特徴となっており、技法は実に多岐に亘るのですが、この話を始めると長くなりますので、代わりに私の「半世紀前」の演武写真でお茶を濁させていただきます。

千葉・岩井海岸での修練(左:段蹴と三防受、右:袖巻返)

3.少林寺拳法の日中交流

さて少林寺拳法の日中交流ですが、戦後の日中国交正常化から交流が始まって40年、宗道臣開祖が戦後外国人として初めて嵩山少林寺を訪れてから36年にもなります。当初は嵩山少林寺も荒れ果てていて寺僧はわずか4人、建物も多くが崩壊し、壁画なども傷みがひどい状態でした。それを日本から協力の手を差し伸べながら、鼓楼の再建支援とか、白衣殿の修復支援とか一歩一歩後押しして形を整えていったわけです。

そうやって交流を重ねるうち、先ほど触れた映画「少林寺」の話が出て来ました。あのスーパースターの李連傑、英語名でジェット・リーという人が人間業とも思えないような技を繰り出す痛快アクションドラマですが、これには少林寺拳法からも技術指導したり嵩山少林寺との間を取り持ったりしました。それがブレイクも大ブレイクし、世界的大ブームとなり、観光客は押し寄せるは、武術入門者は増えるはで、嵩山少林寺を取り巻く環境も一変しました。寺は財政的に潤い、建物は見事に再建され、寺僧は700人まで増え、周辺には数多の武術学校ができて、常時10万人が修練していると言われています。

嵩山少林寺はまた歴史的建造物や文化遺産の宝庫と言われており、唐の李世民の親筆になる石碑や、山門には清の康熙帝の宸筆と言われる扁額などが掛っています。また中国歴代の書道の大家による書が随所に在り、歴史と文化を十分に感じさせてくれます。それが評価され、近年世界文化遺産に登録され、嵩山少林寺は大きく甦ってまいりましたが、私たちとしてはそのお手伝いができて嬉しい限りです。

画像
宗道臣文庫落成記念セレモニー

しかし少林寺拳法の交流は嵩山少林寺にとどまらず、地域周辺にも広がっています。人づくりを軸に、20数年に亘り日本語研修のための留学生を受け入れたり、鄭州大学に日本文化の理解を深めてもらうため、3万冊を超える日本語図書を寄贈したり(←それを基に先ほどの宗道臣文庫が設けられました)、地元の農村の子供達のために少林希望小学校を建設し運営にも参画し、日中の児童の相互訪問も実現するなど、交流を深めています。

この行動の底流にあるのは、開祖から続く「日中の友好なくしてアジアの平和はあり得ず、アジアの平和なくして世界の平和はあり得ない」という少林寺拳法の一貫した理念です。日中関係はいま、政治外交問題を中心に難しい局面に立っておりますが、どういう時にもお互いの立場を認め合い、同時に率直に良いものは良い、良くないものは良くないと言える隣人同士であることが大切ではないかとの信念で、交流が絶えることなく続けられています。

両国の人たちがもっともっとお互いを知り合い、個々の人間同士がどんどん交流していけば、今より遙かに地に着いた、素直な付き合いができるのではないか‥‥ 何事も結局は人であり、人と人のつながりが一番大切、そのための人づくりという少林寺拳法の原点に戻ってきます。先ほどの日本で交流活動に参加した中国の子供達の感想文には、「日本はとてもきれいな国だった、日本の人はとても優しかった」と、何の先入観もないごく自然の受け止め方が誰彼となくありました。今度の旅を通じて、最後はやはりこうした民間の一人一人の地道な交流が両国関係の本当の土台になるのではないかとの想いを強くした次第です。マーク

よねだたかとも ディレクトフォース会員(952)
少林寺拳法グループ日中交流プロジェクト委員会委員長
前・日本電産グループ、元・日本興業銀行

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